今回は、自分と周囲を幸福にする生き方について書いていこうと思う。
こうした生き方をする人が増えれば、この世界はもっと幸せで、多くの人がより富んだ生き方をできるようになるだろう。
では、その生き方とは何かというと、すなわち他人のために生きるというものだ。
これから詳しく書いていく。
他人のために生きる人間が一番幸せ
他人のために生きている人間は、ネガティブな感情に囚われることはない。
何故か?
それは、そもそもネガティブな感情というのは自分の身を案じる場合にしか起こらないからだ。
常に不安や恐怖に襲われてしまっている場合というのは、まず自分に関する心配で占められている場合ばかりだ。
しかし、ここで考え方を変え、他人のために何ができるかということを考え方の基準にしてみよう。
そうすると不思議なことに、ネガティブな感情というのはほぼなくなってしまう。
他人のために生きると言うととても偽善的なきれいごとに聞こえてしまうかもしれない。
しかし、人間というのはどうも本能的にそうした生き方に快を感じるようになっている生き物らしく、やってみると自分まで気分が良くなってくるのだ。
「情けは人の為ならず」という言葉があるが、まさにこれにピッタリと言えるだろう。ことわざというのは、多くの場合真理を突いている。
他人のために生きるとは
ここで注意して欲しいことがある。
他人のために生きると決意しながらも、いつの間にか自分のためという動機にすり替わってしまっている場合だ。
例えば、誰かへ親切を行なった時、ことさら見せつけるように行ってしまったりする。
他にも、良かれと思ってやったことが実は相手からしたらありがた迷惑で、それを指摘されて気分が悪くなったりする。
これらは、親切への見返りを要求するような行為であり、この記事で書いている他人のための生き方とは異なる。
ここで書いている他人のために行なう行動というのは、あくまでも無私なもので、他人への見返りを求めるものではない。
目的は自己から湧き出る喜び
とはいえ、自分の中から湧きあがる喜びを求めるのならば、別に構わない。だが、親切にした相手へ見返りを要求することはしない方が良いとだけ思ってもらいたい。
陰徳という考え方があるが、まさにそれだ。誰も見てないところでこそ、徳を積むように心がけるのが良い。
不思議なもので、こうした生き方をしていると自分が与えたものが何倍にもなって返ってきたりする。
それは親切にした相手から直接返ってくるとは限らない。そんな単純な話ではなく、世界がそう仕向けたかのように、不思議なめぐりあわせを経て返ってくることが多いのだ。
できればこうしたものも目的にしないのが一番良いのだが、最初の内はそれを目的にしても構いはしない。
だが、間違っても他人への見返りを求めないことだ。
それはあくまでも現実的な取引であって、そうであるからには現実的な見返りしか期待できないだろう。
そもそも見返りを求めなくとも帰ってくる時は帰ってくるのだから、初めから見返りを求めない方が良いとは思うが。
イエスは、「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」と言っているが、まさにこのことだ。
最も豊かなのはこうしたことを行なっている人たちだ。
世の中は未だに、これと反対のことをして富んでいる人たちに焦点を当てていることが多いからこうした人たちは目立たない。
だが、実はこうしたやり方で富んでいる人たちというのが一番多い。
与えるからこそ、与えられる。こうした人たちは、精神的にも物質的にも決して貧しくなるということはない。
私としては、そうした人たちがもっと増えて欲しいと思っている。
そのような人々が増えれば増えるほど、本人も周囲も幸せになることは確実だ。
無私の親切心は、巡り巡って自分を最も幸福にする。そうした真実がもっと伝わればいいと思っている。
では、今日はこの辺りで。あなたに幸せが訪れますように。