前々から考えている仮説がある。
それは、ブッダやキリスト、ムハンマドなどの覚者、預言者たちというのは、実は同じ真理を別の側面で語っているに過ぎないのではないかということだ。
彼らの教えは、共通したところはそれなりにあれど大きく違っているように見える。
しかし、本当にそうだろうか?
実のところ、彼らの発言というのは、諸々の事情で全く違う事情のように受け止められているに過ぎないのではないだろうか。
もちろん、これは多少トンデモ染みた(笑)仮説ではあるが、興味深いものだとも思う。これからその(根拠にもなっていない)根拠を書いていく。
同じ真理を語っているのに、なぜ違って見えるのか
なぜ上記のような精神的リーダーは、まるで別のことを語っているように見えてしまうのか。
言葉の制約
その理由の一つとして、言葉の制約が挙げられる。
言葉は非常に強力なツールだ。それまでにぼんやりと感じていた概念であっても、名前をつけない限り中々認知されないほどに。
今でこそスピリチュアルな世界を表す表現はたくさんあるが、それでもなお全てを表現する段階にまでは至っていない。
今より、そうした概念も言葉も少なかったであろう古代では、彼らのような精神的リーダーの知った真理に言葉が追いついていなかった可能性が高い。これが根拠の一つ。
見ている世界の違い
二つ目の理由として、上記の指導者たちと一般民衆に過ぎない信者たちの間に大きな認識の違いがあったことが挙げられる。
言葉とは便利なものであるが、その言葉はどうしても受け取り手の理解できる範囲での解釈しかなされない。
大げさに言ってしまうと、指導者たちが大いなる精神世界について語ったことであっても、受け取る側の大半は物質世界のレベルで受け取ってしまっていただろう。
指導者たちの言葉は今の世界にも書物として残っているが、大半は彼らではなく彼らの言葉を聞いたものが書き残したものだ。
元々の意図から大きくそれてしまっている教えも数多くあるだろう。これが二つ目の根拠だ。
意図的な創作
そして最後は、意図的に改ざんされた部分だ。
聖書などに記されているような、当時から影響力が強かった教えは、時の権力者や書き記した者によって歪められていると思われる個所がある。
権力者の場合は自分に都合の良いようにであるが、「自分は理解している」と勘違いした信徒が、親切心で余計なことを追加しているという部分もあるだろう。これが最後の根拠だ。
人生に大いなる夢を
上記の三つが、主な理由である。
まぁ最初に言ったように根拠になっているようでなっていない根拠なのだが、ヨタ話としては中々面白い考え方だと思う。
それに、結局同じ真理を語っていたと考える方が、個人的にもどこか夢があるのだ。
彼らのような歴史的偉人が辿り着いた境地を、もしかしたら見れるかもしれない。それどころか、見ている人が居るかもしれない。
そういった、ばかばかしくともどこか夢のあるような考え方が、人生を面白くするコツの1つだと私は思っている。
では、今日はこの辺りで。あなたに幸せが訪れますように。
コメント
管理人の方の考えに強く賛同します。
地域や民族性の影響もあると思います。
結局、キリスト教やイスラム教や仏教は同じことを言っていて、違っているように見える部分は誤差のようなものなのだと思います。
こんにちは、とととさん。
賛同していただけると心強いです。繊細な話題ですしね。
地域や民族性……確かにその通りです。その影響もかなり強そうですね。どうしたって影響を受けるものですし。
本人たちは同じ真理を見ていた。私も結局はそんなところじゃないかと思っています。