知覚が逆転した現代社会~直観をよみがえらせよう~

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かのアルバート・アインシュタインが残した言葉に、こういったものがある。

「直観は聖なる授かりものであり、理性は誠実なる従者である。私たちは従者を敬う社会を作り、授かりものを忘れてしまった」というものだ。これまでの人生で、そう感じる機会が段々増えてきている。

直観の声に従っていれば、自分の人生において常に正しい道を行くことができる。身近な例でいけば、ウケを狙おう温めて置いたネタが滑ってしまうことはよくあるが、会話の流れでパッと思いついた言葉が大ウケするということはよくある。

パッとひらめいた直観に従っていればいいのだ。理性というのは、それを微調整する程度の役割を果たせば良い。絵に色を塗るとする。その塗るということをするのが直感であり、そこからほんの少しはみ出た余計な色を消すのが、理性の役割だ。

人生も、大体こういった役割分担を果たせば上手く回っていく。

しかしながら、近頃は理性偏重になりつつある。これが多くの不幸を生んでいる。

なぜならば、理性にできることというのは、あくまでも間違いを修正したりより正確な方向を向くように微調整する程度のことだ。問題を見つけたり心配をしたりというのは得意なのだが、解決したり創り出したりというのは専門外なのだ。

それが解らないまま理性の声にだけ従い続けていると、ずっと小さなミスを修正し続けるだけの生活を送るようになってしまう。そして理性というのはその小さなミスや問題を見つけることが仕事なので、理性にだけ頼る限りこれは続いていく。これが、不幸の大きな源だ。

「そうは言っても、直観なんて全くないからどうしようもない」と言う人も居るだろう。少なくとも、昔の私ならばそう言う。

しかし、そういった人も安心してほしい。そもそもどんな人間であれ、直観というのは必ず働くようになっている。直観を貴重なものと思う必要はない。呼吸をするのと同じくらい、当然なものとしてあるのだ。ただ、それまで理性の声にばかり耳を傾けていたせいで解らなくなっているだけだ。

直観を取り戻すのは、別に難しいことではない。単に、意図していない理性の声を客観的に眺めれば良い。

大抵の場合、物事を考えているようで実はそんなに考えていない。というのも、多くの人が思う「考える」という行為は、何かを見たり聞いたりした時、本人の意図と関係なく勝手に発生してくる「反応」に過ぎないからだ。

この「反応」をもたらし、目を曇らせているのが理性である。多くの人はこの「反応」を真に受けてしまっている。そこに真実はないのにも関わらず。

意図していない理性の声を客観的に眺めるという行為は、この反応を淡々と受け流していくことだ。例えば、自分が何かを見たり聞いたりした時に、何か不快な考えや感情が反射的に浮かんできたとする。そのような時に、「あ、反応してたな」と気づく。それだけで良い。その頻度を増やしていくだけで、直観の声というのは少しずつよみがえってくる。

このような行為は、「今この瞬間」を生きるという行為でも同じような効果が得られる。というか、この二つはそもそもそれほど境がない。優劣だってない。ただ単に、どっちを選ぶかの差だけだ。自分に合う方を選べばいいし、何なら両方やっても良い。どちらを選ぼうとも、そのうち直観が全て教えてくれるようになるだろう。

では、今回はこの辺りで。あなたに幸せが訪れますように。

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